ダーク ピアニスト
〜練習曲11 革命前夜〜

Part 1 / 4


 連なった鍵盤の荒波がルビーの心で吹き荒れていた。痛みと快楽と絶望に似た波にもまれ、抗うこともできず、彼は自分が黒く冷たい水底に沈んでいくのを感じた。彼はそこに横たわったまま、じっと暗い水面を見つめていた。

「海……」
彼が呟く……。その黒い瞳の奥に映る幻……。青い海に飛沫が飛んで淡雪のようにはらはらと散っていく……。それは美しい乙女の最後の吐息のように淡く切ない香りを漂わせていた。
(あれは誰……?)
水の中で揺らぐ少女の影……。開いた瞳は淡い水色。悲しそうにじっとこちらを見つめている。
(誰?)
彼は思い切って手を伸ばそうとした。消えてしまうその前にその手を掴まなければ……と。が、それはいつも間に合わない。彼が伸ばした手に絡むのは、いつも空虚でうつろいやすい水草の弦だけ……。
「待って……」
ルビーが言った。
「お願い。もう少しだけ……」


 (もう少しだけ……)
ルビーは椅子に縛りつけられていた。自由にならない手足。そして、自由にならない感情のすべてを、彼は自らの手で強く握り潰した。乾いてしまった涙の跡が潮の道筋のように鈍い光を放っている。

――エレーゼには手を出さないね?
ルビーが訊いた。
――ああ。出さないとも。おまえがいい子にしてたらな
右頬に傷のある男が言った。
――そうさ。俺達だってできればこんなことはしたくないんだ。可愛いお人形ちゃんを傷つけるなんてことはね
格子柄の背広を着た男がにやけた顔で言った。

 2時間前のことだった。
 ルビーはまた彼らに呼び出され、ここに連れて来られた。

それは、薄暗い倉庫のような部屋だった。見慣れない機会の箱や台車に乗ったコンテナが幾つも置かれていた。コンクリートの床は灰色でざらざらとし、砂埃が舞っている。闇色のスーツを着た男は全部で九人。ルビーは縛られた手を固く握ると、10メートルほど先にある壁に設置されていた小さな高窓を見つめた。押し上げ式のその窓から僅かに新鮮な空気が流れ込んできていた。ルビーはそんな新鮮な空気を吸いたかった。ここは煙草の紫煙と積もった埃、そして、彼らが吐き出す悪臭に塗れた言葉とですっかり汚れていた。

(どうして……? 僕がその気なら、こんな奴ら……)

――エスタレーゼには監視が付いてる。おまえが逆らえば彼女がどうなっても知らないぜ

(エレーゼ……)
彼は乾いた唇を舐めた。それから、目の前に立つ男を上目遣いに睨みつける。
「ほう。おまえも強情な奴だな。まだそんな反抗的な目ができるとは……」
頬傷の男がルビーの襟首を掴み、彼を殴りつけた。二度、三度……胸や腹部に拳がめり込む。
「ううっ……!」
彼は逆流してきた胃液を吐いた。赤い血が点々と混じり、暗い照明に照らされて宝石のように輝いて見えた。

(同じだ……)
彼は激しい眩暈を感じた。その脳裏に浮かぶ既知感。繰り返される暴力の波……。苦痛と悲しみの序曲……。
(あの時と同じ……)


 それは、彼が成人を迎えた18才の頃だった。成人になったといっても、ルビーはまだ子供だった。彼は、常識も、組織のことも、何一つ理解できていなかったのだ。ギルフォートがルビーを一から訓練し、たった3年で実践で使えるようにまで仕上げた。ギルフォートは当時からグルドのスナイパーとして揺るぎない地位を保っていた。そんな彼の直接の手解きを受け、組織のボスであるジェラードの息子として優遇されてきた。そんなルビーに対し、良からぬ感情を抱いていた者達も少なからず存在していた。

――へへへ。どうだ? 特別待遇されてる気分は?
――特別? 
――そうさ。ジェラードやギルフォートから可愛がられてさぞ満足してんだろ?
――わかんないよ、僕……何のことだかまるでわかんない
――へえ。わからないなら身体でわからせてやるよ
――やめて! ぶたないでよ、僕、何も悪いことなんかしてないのに……
――悪いことはしていない? 冗談じゃねえ。おまえの存在自体が悪いんだよ
――どうして? 何故それが悪いの? 教えてよ
――避けるなよ。抵抗すれば、エスタレーゼが傷つくことになるぜ。そうしたら、ジェラードが何て言うかな? いや、それよりも彼女がおまえのことをどう思うかだ。どうだ? わかるか? お馬鹿さん。それとも、そんな難しいことなんか考える頭を持ち合わせていないかな?
嫉妬に狂った目が狂気の笑いを振りまいていた。

(エレーゼ……)
その時の連中が言った常套句も、彼女を傷付けてやるという言葉だった。
(どうして? 何故みんな、エレーゼを傷付けるなんて酷いことを言うの? 僕が嫌いだから? 僕が憎いのなら、僕だけに復讐すればいいじゃないか。それなのに……! どうしてエレーゼを巻き込もうとするの? どうして? 一体どうして……!)
その時受けた暴行のせいでルビーは胃穿孔を起こし、危うく命落とすところだった。その事件に関わった者たちについてはギルフォートがあとで制裁を加え、騒ぎは決着した。だが、それは多くの問題を浮き彫りにした。

ルビー自身、組織に馴染んでいなかったこと。そして、彼とギルフォートに対する憤りと反感を持った者達の存在。そして、何より、ルビー自身が自らに強いた抑圧。それは、偏にギルフォートとの約束を守ろうとしたことに起因していた。
――むやみに人前で能力を使うな。いいな?
それは、ルビー自身を守るためでもあったのだが、その時にはそれが裏目に出た。以来、ギルフォートも条件を少し緩和した。
――状況は自分で判断しろ。必要があれば使え
と……。しかし、ルビーはなるべくその力は使わないようにしようと決めていた。彼は承知していたのだ。たとえ力を使ったとしても、エレーゼを守ることはできない。遠隔地にいる者達の手から彼女を守る術はない。超能力は万能ではないのだ。ルビーはきつく唇を噛んだ。

(ギル……)
彼は口の中に広がる不快な苦味を噛み締めた。
(生まれてきてはいけなかったの?)
ざわざわと風が鳴っていた。葉ずれの音に混じって聞こえる獣達の囁き……。それは怨念のように低い声で空間に圧力を掛けてきた。
「痛い……」
が、小さな呟きは、男の靴先で蹂躙された。耳の奥に響くのは、遠くに霞むともし火のような鐘……。
(生まれてきては……)

霞んだ窓の向こうに誰かいた。父と母と学校の友達、そして……。皆がうれしそうにお喋りしている。懐かしい部屋で、シュレイダー家の広間で、学校で、自分のいない場所で、幸せな笑みを浮かべている。彼はそこへ行こうと手を伸ばした。が、誰も彼に気がつく者はない。彼のいない世界で、彼の知らない表情を浮かべ、皆は楽しそうに笑っていた。仲間に入れて欲しかった。何もかも忘れて母の隣で眠りたかった。しかし、母は彼に気がつかない。他の誰も彼を見ようとせず、声を聞いてもくれなかった。
(教えてよ、母様! 本当のことを教えて! 僕はどうすればいいの? 一体どうすれば……! 誰か! 誰か! 誰か……。お願い。僕に教えて……)
憎まれる理由を彼は知らなかった。何故自分だけがいつも妬みや憎しみ、もしくは蔑みの対象にされなければならないのか。彼にはまるで理解しようがなかったのである。

(どうして……?)
もう痛みも何も感じなかった。ただ口の中に広がる酸味と彼の体の中から流れ出たものが、彼に幻の海を彷彿とさせた。跳ね上がる飛沫……。そして、その向こうで微笑んでいる少女……。
(あれは……人魚?)
海の藻屑となって消えた少女……。その悲しい微笑みは、やがて深い憎悪へと変わり、射抜くような視線で宙を見つめ、それからまた、やさしい面影となって散る……。
伸ばした手は届かなかった。心はいつもすれ違ってばかり……。
(エレーゼ……)
もし誰も自分を理解してくれないというなら、自分の存在価値は何処にあるのだろうとルビーは思った。

何故? と問い返すことさえ億劫だった。その足元を通り過ぎる黒い鱗……。水底に映る鏡。覗いているのは歪んだ彼自身の顔なのか、純真無垢な少女の化身なのか。それとも……。エスタレーゼの水色の瞳なのか。彼はもう一度拳を握った。
(守らなくちゃ……。僕はもう疲れたの。でも、守らなくちゃ……)
漣のように彼は心の中で呟き続けた。
(守らなくちゃ……)
もう手の感覚も足の感覚もなかった。ただじっとそこに座っているだけ……。座って、じっと正面を見つめている。人形のように……。黒い円らな瞳をした人形のように……。

「ゲームをしようぜ」
タイニーが言った。ここの連中を仕切っている男である。しかし、ルビーは表情を変えずにそこにいた。頬傷の男が後ろ手に巻かれたルビーのロープを解いた。自由になった腕。しかし、それをだらりと下げてルビーはもう何も反応しなかった。
そんな彼の目の前に拳銃を突きつけてタイニーが言った。
「ほら、これさ」
男はマガジンに1発だけ弾丸を込め、ガチャリと填めて回転させた。ルビーはじっと銃口を見つめている。

「どうだ? おまえだって知っているだろう? ロシアンルーレット。込めた弾丸は1発。ゲームの参加者は、自分の頭に向けて交互に引き金を引く。スリル満点の遊びさ。弾丸は必ず奇数回に出る仕掛けになっている。どうだ? 面白いだろう?」
男はにやにやと笑っている。他の連中もそうだ。
「最初はおまえからだ。さあ、引き金を引けよ」
ルビーの手に押し付けて男が言った。
「さあ、こめかみに銃口をあてるんだ」
力の入らない彼の手に無理に握らせて言った。
「……」

「さあ、何をしている、早くしろ!」
男が怒鳴った。
「……」
ルビーがゆっくりと右手を上げ、銃を自分自身の頭に向ける。
「ようし、いいぞ。そこだ。トリガーを引け!」
少し離れたところからタイニーがせかす。ルビーの瞳に白い照明の輪が映り込んだ。が、その瞳は何も感じていなかった。感情を失くした人形はそっとその指先に力を込める。ゆっくりとトリガーが沈む。黒い水底の静けさのように……。

と、その時。鉄の扉が勢いよく開いた。倉庫の中へどっと新鮮な空気が流れ込んで来る。重い扉が蝶のように舞い、その度に高い金属音が空間の中で反響する。
「そこまでだ!」
ギルフォートだった。彼は同様する男達の間を通って堂々とルビーの前に出た。しかし、人形の指は凍りついたように引き金を引き掛けたまま止まっている。彼は黙って視線を合わせた。が、まるで反応がない。ギルフォートは彼の手から拳銃を取り上げた。そして、マガジンを確かめる。それから、もう一度それを戻すと勢いよく回転させる。

「いいおもちゃだな」
ギルフォートが振り向いてタイニーを見据えた。
「ロシアンルーレットか。流行らない遊びだが、ここはおまえ達に付き合ってやる」
ギルフォートは手の中で銃を回すと自分のこめかみに銃口をあてた。
「ギル……!」
ルビーが叫んだ。
「最初はおれからだ。そして、次におまえが引き金を引く。恨みっこなしだ。いいな?」
「あ、ああ。いいとも……」
タイニーは薄笑いを浮かべている。
「だめだ! ギル! それは……!」
ルビーが叫ぶ。が、皆まで言わさず、男の一人が彼の口を手で塞いだ。

(だめ! 止めなきゃ……!)
必死に抵抗するルビーを三人の男が抑えつけた。
「ギル……!」
絶望的にルビーが叫ぶ。が、その時にはもうギルフォートの指がトリガーを引いていた。
「ああ……」
天井を支える黒い梁が頭の中でぐるぐると回転した。そして、彼の目の前にその中の一本が急速に落下する。それは、ルビーの目には近づくにつれて膨張する巨大な柱のように思えた。その暗闇がすべての視界を塞ぐ前に、ルビーは固く目を閉じた。カチリ。重い静寂の中で乾いた金属音が響いた。

「次はおまえの番だ」
ギルフォートが目の前にいる男に渡そうと腕を伸ばす。が、タイニーは頬を引きつらせ、驚愕の瞳でその銃を見つめた。
「馬鹿な……」
「さあ、どうした? おまえの番だ。銃を受け取れ」
ギルフォートに睨まれて渋々それを受け取るタイニー。
「さあ。何をしている? 早く撃て」
ギルフォートがせっつく。
「わ、わかっている……」
男はそう言ったが、明らかに手元が震えている。

「何故だ……。奇数発には必ず……」
タイニーはじっとその銃を見つめ、腑に落ちないといった顔をした。
「下手な小細工など無駄だ」
ギルフォートは足元に落ちていた小さな硝子片を踏み砕くと皮肉の笑みを浮かべて言った。
「あとはせいぜい本物の運に掛けてみるんだな」
冷ややかな瞳だ。
「う、運だと……!」
泣きそうな声で男は言うと周囲の仲間達に目配りする。が、彼らは皆、視線を合わせようとしない。

「さあ、どうした? 意気地なし! おれのマグナムにぶち抜かれたいか? それとも、自分自身の手でけつを拭うか? 二つに一つだ」
タイニーは顔面蒼白のままじりじりと後ろに下がった。
「早く決めろ!」
「わ、わかった」
男は恐る恐る銃口を自分のこめかみに向けた。が、その指先は哀れなくらいがたがたと震えている。数秒の沈黙。そして、突然、銃口を下ろして喚いた。
「ゆ、許してくれ。おれはまだ死にたくねえ! この銃には仕掛けがあって次には必ず弾が出る。奇数回に必ず弾が出るように細工したんだ。何でさっき弾が出なかったのかわからねえ。だが、次にはきっと……! だから……」
「見苦しいぞ」
刺すような視線に睨まれて、男は背中を向けた。

「ルビー、手伝ってやれ」
ギルフォートが冷徹な口調で命じた。
「彼女は……?」
「掃除は済んだ」
ルビーは押さえられたまま、こくりと頷くと男と銃に視線を向けた。そして、次の瞬間。タイニーの右手がゆっくりと持ち上げられ銃口がそのこめかみに当たって止まる。
「手、手が勝手に……!」
男は恐怖のあまりその場にへたり込んだ。その指がゆっくりとトリガーを押す。
「やめろーっ! お願いだ! おれは死にたくない! 死にたくないんだ、助けてくれ!」
壁に向かって命乞いする。

ズギュン!

哀れな男の身体は脈打つように跳ね上がり、自らが撒き散らした汚物の中に沈んだ。

「野郎!」
そこにいた男達が一斉に銃を構える。が、銀髪の男は素早く銃を抜くと、まずルビーの周囲の三人を吹き飛ばした。それから、彼が括り付られている椅子の背後に立つと前方にいた二人を瞬殺。コンテナの影に潜んでいた男とサイドから狙ってきた頬傷の男を仕留める。が、同時に彼の背後から発射された弾丸を、ルビーが念で弾き飛ばした。次の瞬間。ギルフォートの銃がその男の胸を撃ち抜く。貫通した穴からは毒々しく赤い血が噴出した。

硝煙と血の匂いが立ち込める倉庫の中で彼らはじっと耳を澄まし、視線を這わせる。風がヒューッと細い音を鳴らしていた。地下を通る銅管を伝う水音が巨大な生物の呼吸のように響いている。倒れている男は九人。それで全員の筈だ。ギルフォートは静かに銃を下ろした。

と、その時、微かな、ほんの微かな金属音がした。次の瞬間。振り向き様にギルフォートが撃った銃弾がその男の額を撃ち抜いた。驚愕の表情を浮かべたまま、その男は仲間の身体の上に重なり合って絶命した。ルビーの近くにいた三人の中の一人だ。運良く致命傷にならなかったのだろう。が、反撃しようとしたことが仇になった。自らの行動により、身を滅ぼす結果になったのだ。

「ギル……」
微かな声でルビーが呼んだ。ギルフォートは血液のこびり付いたその縄を解いてやった。しかし、ルビーは動けずにいた。
「どうした? 痺れたのか?」
「うん……。それに……」
ルビーは微かに指先を震わせて言った。
「それに?」
丁度、二人の間合いを埋めるように光が射した。
「僕……怖かったんだ」
「死ぬのがか?」
「ううん。僕がじゃないよ。あの銃には仕掛けがあった。なのに、あなたが平然とそれを取るから……。もしも、あなたが死んだらと思ったら、僕、すごく怖くなって……! ものすごくだよ! 本当にものすごく……怖かった……」
その瞳から涙が溢れた。ギルフォートは左手でそっと彼の頭を撫でてやった。

「泣くな。おまえはもう立派な大人になったんだろう?」
ルビーが頷く。
「そうだ。だから、もう泣くな。おまえは、もうすぐエスタレーゼと結婚するのだから……」
「え?」
ルビーが驚いたように男を見上げる。銀髪の男は頷いて言った。
「そうだ。だから、早く来い」
そう言って男は踵を返す。
「待って!」
その背中を追ってルビーが駆け出す。

(どういうことなんだろう? 僕がエレーゼと結婚?)
信じられない言葉だった。
(結婚? だって、エレーゼは……。あなたはどうなの?)
ルビーはそう訊いてみたかった。が、その言葉は喉につかえて出て来ない。そして、感情は、ゆっくりと時間を掛けて混沌とした心の闇の底へと沈んでいった。